
最近、「手放す」というワードによく出会うようになりました。ふと手にした本の中で、SNSで、すれちがう人の会話の中で。私の無意識が、その言葉を手繰り寄せているのかもしれません。
思えば私たちは、常に前進し、何かを獲得し、増やしていくことを良しとして生きていることが多いように思います。実際、人間社会はその価値観の中で成長し、発展してきたと言えるでしょう。
でも人生も半ばを過ぎ、多少なりとも悲喜こもごもを経験してくると(そんなことを言うと、多くの先輩方から「まだ早い!」と総ツッコミが入りそうですが)、そうではない方向へのギアチェンジがそろそろ必要なのかな、と感じることも増えました。月が満月を経て欠けていくように、太陽が夏至を経て日差しを弱めるように、後半には後半の過ごし方があるのではないかと。
現に、年を重ねていくにつれ、大切な人とのお別れや、体力の衰えによってできないことが増えていくなど、いやでも手放さなければならないことが増えてきます。それを、これまでと同様「手に入れること、たくさん持っていることが幸せである」という価値観に照らし合わせてしまうと、焦ったり、悲しくなったり、不幸であると認識してしまうでしょう。でも実際には、これまで持っていたことがむしろ奇跡だったのであって、それを手放していくことは、人生のランディングに向かって一つひとつ準備していくことなのかな、なんて感じています。
若松英輔さんの『探していたのはどこにでもある小さな一つの言葉だった』(亜紀書房)という本に、著者の師である井上洋治さんの言葉として、「生きるとは、ひとつひとつ神さまにお返ししていくことだと思う」と紹介されていました。そう、おいしいものを味わえるのも、美しい景色に感動できるのも、大切な人と出会えたことも、自分の足で歩けることも、すべては天の計らいであったと思えば、いつかはお返しする必要があるのでしょう。
では手放した後はどうなるのでしょうか? 同書で若松さんは上皇后美智子さまの書かれた詩を引用しながら、「手放すとは、朽ちることのない光を招き入れること」としています。たとえ肉体が滅んでも、ずっと魂を照らし続ける光。そんな光が、皆さんの心にもたくさん灯りますように。
